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『J A 、』

と私はパソコンに、ローマ字入力で打つ。

スペースキーを押すと。

『じゃ、』

とひらがなに変換される。

やっと仕事を終えた明け方。マンションの窓からは白んだ小さな空が覗いていた。あと数時間で日が明け、夫も起き出してくる。この時間、私はいつもメールを数通打って眠ることにしていた。

続けて私は、

『N I T I Y O U B I T T E K O T O D E』

と打って、スペースキー。

『日曜日ってことで』

と変換される。

さらに、

『I I N O K A N A ?』

と打って、変換。

するとそれは、

『いいの香菜?』

と変換された。

『香菜』の部分が、誤変換だ。

私は『香菜』という漢字を消し、『K A N A』と打ち直し、再変換した。

『いいのかな?』

こうして

『じゃ、日曜日ってことでいいのかな?』

という一文ができあがる。


その時、ふと、私のメールを打つ手が止まった。

このパソコンで、

『いいのかな?』とか『どうなのかな?』というような問い掛けの文章を打つたび、『いいの香菜?』『どうなの香菜?』と誤変換されている気がする。そしてそのたび、

『香菜』

という漢字を、目にしている気が……。


美しい言葉だけど、普通に誤変換するにしては、特徴的な文字の並び。香る……菜。

私も最初はなんでもない、ただの漢字の誤変換だと思っていた。


香菜。


ところが今日、初めてその文字が、人名に思えてきた。
パソコンにおいて、日本語変換ソフトは、変換効率を競っている。ローマ字入力して、かな漢字混じりの文章に変換する際、この変換効率が発揮され、最近の優秀な変換ソフトはほぼ間違いなく正しいかな漢字混じりの文章に変換される。

しかしそれでもその人が使う言葉のクセなどを間違って学習し、精度が落ちることもある。しゃべり言葉などは特にそうだ。メールなどでクセのある言葉を打っていると、変換効率も落ちてくる。

このパソコンに入っている日本語変換ソフトのバージョンは、最新のものではなかった。

こうした誤変換が生まれる理由は、多くの場合、『香菜』という文字をユーザーが頻繁に使用しているからだ。


香菜……。


すでに朝、四時を回っていた。やっと眠気が襲ってきたところだった。

私の頭に、『香菜』の二文字が妙にこびりついた。
私は、同棲からそのままずるずる入籍した夫と二人暮らしをしている。結婚から四年経つが、子供はまだない。

ウェブデザイナーの端くれだけど、頼まれればなんでもやる。今はイラストや、写真のレタッチ、さらにはメルマガの編集後記の代筆などをやっている。

仕事を回してくれる代理店の高橋は、派遣をやっている頃からの馴染みで、毎週木曜日に会って打ち合わせることになっているのだが、大した奴でもないのにその時間が楽しみになってきているから、人生、マズいツボに入っているのではと、焦ってしまう。

高橋は背が小さく、顔つきは濃く、ギョロっとした目玉と、その上の黒い眉がいつも印象深く私をじっと見つめる男前だった。

若い頃は相当浮気をしただの、今も誰とどうだのこうだのと、やたら女自慢するし、私はこの男がとにかく好きではない。

そんな彼がまたしても自分の浮気話と結びつけて、このこびりつく誤変換の問題についてこんな話を返した。

「俺もある。そういうこと。別れた女の名前がずーっと携帯から離れてくれなくて。いっつもそいつの名前で変換されるんだよ」

「そんなこと、あるの?」

「あるんだよ。結構。とり憑くんだよね。名前が」

体験談だけに、意外に真剣に彼は語った。

その女性とは酷い別れ方をして、彼女は彼の事を恨んでいたのだという。

「強い想いが篭ってれば篭ってるほど、パソコンの記憶中枢にとり憑くんだよ。生き霊みたいなもんだな」

パソコンに名前がとり憑く……そんな奇妙な現象があるだろうか。

ならば、香菜とは一体、誰なのだろうか?

「亡くなった人の名前が、いつまでも変換されるケースもあるって。……怨念だね。そのパソコン、中古?」

「……ん、まぁ」

「それだ」

と高橋は声を低くした。

「前の持ち主に、なんかあったんじゃないの?」

このパソコンの前の持ち主……。それは分かっている。私の夫だ。

香菜は、夫の昔の女だろうか?

その名前がまだこのパソコンに取り憑いている……。

その昔、夫とその女の間で、何か良からぬ事があったのだろうか。